女は今日もトランプのカードを置く
彼女はいつも窓際の席に座り、レモンティーを頼む。
そしてテーブルの通路側には毎日なんらかのトランプのカードを一枚、しわがれた手で差し出すように置く。
この店……「cafe&bar あだん堂」のマスターである安壇征四郎《あだん せいしろう》は彼女とは顔なじみだ。なにせ何年も前の開店当初から毎週水曜日に欠かさずこの店を訪れていたから。しかし、親しみも少し感じるものの彼女はどこか壁をつくっていて、気兼ねなく話せる仲というわけでもなかった。
以前、テーブルに置いてあるトランプのカードについて一度だけ聞いたことがある。水をカップに次ぎ足そうとしてカードをずらそうとした時だ。
「待って。このカードは動かさないでほしいの」
「そうでしたか、申し訳ありません。ところでこのカードには何か意味があるのでしょうか?」
「あるわ。でも、それ以上は言えない約束なの」
そこで安壇征四郎は彼女には何か大きな秘密があるのだと思い、他の従業員にも彼女のトランプのカードには触れないこと、そして聞かないことを言い伝えたのだった。
――――カランカラン。
店の出入り口から音が鳴る。そこにはハットを被った老紳士。彼もまた毎週水曜日に来て……彼女が置いたトランプのカードを無言で持っていき、まったく違う席でコーヒーを頼む。
安壇征四郎は彼とも顔なじみだ。というのも、この女性と同じ日からここに同じタイミングで通っているからである。しかし彼も紳士的な口ぶりではあるものの自分のことを一切語ろうとしない謎多き人だった。
彼らには何か秘密がある。安壇征四郎はそう思ったが、きっと触れてはいけないものなのだと、そっと見守ることにした。
*
住み慣れた自宅には今日も蝋で封をされた便せんが一枚届いていた。差出人は不明で宛名には「親愛なるローサ」と見飽きた文字が綴られている。封を切るとそこには「工場裏、午後十一時」とだけ書かれていた。私はそれを無表情のまま見つめてから家の中に戻り、トランプの箱からダイヤのジャックのカードを取り出して鞄にいれた。そして手紙は暖炉の火の中へ。私は、ある組織の情報伝達係だった。
「この生活を始めて、もう何十年かしら」
なんの取引かは知らされてない。むしろ知らなくていいことだ。でないと、何かがあったときに真っ先に消されるのは私。何かが無くても消される可能性もあるけれど。ただ、いつからか命を張るような危険な取引でありませんようにと願う自分がいた。あのハットを被った彼に恋をしてからは。
彼が誰かも、取引に直接関わっているのかも分からなかった。わかってるのは私も彼もこの国の生まれではないということくらい。
私は彼のことをとても知りたかったけれど、それは叶わない。これが組織の掟だから。
「cafe&bar あだん堂」は非常に居心地のいい場所だった。今日は待ちに待った水曜日。いつもより少し目立たない程度にお洒落をしてその喫茶店に出かける。そこには色んな個性の従業員や客がいて、見ていて飽きない。約束の時間まで時間をつぶすにはとてもいい場所だった。
その中でも私が興味を惹かれたのは一人の女の子。今日もマスターの安壇さんに言い寄っている。若いっていいわ。それに「普通の女の子」にも憧れた。もし私が「普通の人間」であればハットを被った彼に話しかけることくらいできたのではないかと、夢物語を何度も何度も頭の中に浮かばせた。いや、彼も「普通の人間」であればもっとお近づきになれたかも。……馬鹿ね。そんなこと考えたって叶いやしないのに。
――――カランカラン。
喫茶店に入り、いつもの席に座ると安壇さんが静かにやってきた。
「ご注文は、いつものでしょうか」
「えぇ。ありがとう、そうしてちょうだい」
彼は私がレモンティーを頼むのを知っている。とても助かるの。……私、元々コーヒーが好きなんだけどね。上からの指示でレモンティーを頼むようになってから、この味にもよく慣れた。
そしてレモンティーが目の前に置かれて落ち着いてから私はトランプのダイヤのジャックをいつもの場所に表向きに置いてハットを被ってやってくる彼を待った。
このトランプのカードの秘密はこうだ。
カードの種類はそれぞれ場所を表す。ハートは港、ダイヤは工場裏、クラブは街中のクラブ会場、スペードはとある路地裏。そして数字が時間を表し、裏面を上にして置いたら「午前」、表面を上にして置いたら「午後」を表していた。
約束の時間は人の少ない午前十一時。
すると出入口の来店の音が鳴った。私はすぐに出入口に目を向ける。彼だわ。彼はいつからかカードを受け取るまでの数秒間、私と目を合わせてくれるようになっていた。この一瞬の時間が私の唯一の夢見る時間。カードを無事に受け取ったのを見送った私は少し遠い席から聞こえる安壇さんと彼の会話に耳を澄ませる。そうしてある程度したら席を立ってその店を出るの。夢の時間は、また終わり。
*
突然、私の密やかな楽しみは音もなく崩れ去った。
今まで私はすぐ覚める夢を見ていたと思っていたけれど、それさえも夢だったということを一通の手紙で知らされたわ。
彼の祖国が敵国になり、彼はそのうち命を狙われるだろうとその手紙には書いてあり、私のような末端の人間は命までも狙われる心配はないともあった。
……ついに、恐れていた事態が起こってしまった。
そしてその手紙に付け加えられた一言は、「君は敵国の人間に、最低限の情報しか与えてはならない」というまるでとどめを刺されたような言葉だった。
*
次の水曜日、私は今日も少し着飾っていつもの喫茶店に向かう。鞄に忍ばせたのは、ジョーカーのカード。これが彼との最後の逢瀬《おうせ》となるだろう。そう思い、いつもより少し早く喫茶店の中へ足を踏み入れた。
いつもの席に座り、安壇さんからレモンティーを受け取って。しばらくその琥珀色の液体を、店内に流れるジャズを聴きながらぼんやりと見つめていた。時折、レモンティーに浮かぶ輪切り状のレモンを意味もなく隅々見つめて。そうしていくうちに、心は自然と覚悟を決めていた。どうせ、あと少しで終わる命。それならば後悔のない生き方をしようじゃないの。私は鞄から万年筆を取り出し、死神が描かれたジョーカーのカードに文字を走らせる。「愛してる」とは、書かなかった。この行動自体が私の彼への愛の証。
やがていつもの約束の時間にハットを被った彼がやってきた。いつものように私の横を通り過ぎようとした彼の足が止まり、彼は眉をひそめる。そのカードには「あなたに危機が迫っています」とだけ書かれていた。すると彼はカードを受け取り、いつものように店の奥に向かった。
彼はもしかすると自分の死を受け入れるんじゃないかしら、と私は不安を募らせる。そうしてちらりと店の奥へ目をやると、彼は安壇さんから古い電話機を借りて何やら誰かと電話をしていた。同時に従業員の男の子が安壇さんから何か指示を受けて急いで店を出て行く。何が起こっているのか、私にはわからなかった。
しばらくして男の子が戻ってきたころ、私もいい加減席を立とうと考えていた。レモンティーを飲み干して、上着を羽織る。するとボトッと傍らで何かが落ちる音がした。それは一冊の古みを帯びた本のようで、深緑の革のブックカバーだった。私が拾おうとすると、黒い皮手袋の手が伸びてきて本を拾い、そっと私の手を大切そうに握って優しく手渡した。
「……落としましたよ」
彼の、声だった。私は年甲斐もなく心臓が高鳴り、それを隠しながら「ありがとうございます」とその本を受け取る。そのまま彼は店を出て行ってしまったけれど、私は本を胸に抱いたまま動くことができずにいた。そしてしばらくしてから本を開き、そのページに手を滑らせたときに違和感があった。これは……まさか。急いでパラパラと本のページをめくる。……すると。
「……なんてこと」
思わず声が出た。その本には海外行きの船のチケットが二枚、そしてハートのクイーンのカードが表向きに挟まっていた。これはきっと彼から私へ、共に海外逃亡する待ち合わせの約束。そして私に船のチケットを二枚分預けたのは、彼の命を私に預けるという彼なりの愛情表現。お互いが命をかけた愛のやり取りをした。私は約束の時間が迫っていることを考え、すぐに家に戻ることにする。最後に一言、安壇さんに「お世話になりました」と言うと、何かを悟った安壇さんはひとつ深く礼をした。
*
花屋の前で老紳士が一人佇んでいた。そこに花屋の店員が尋ねる。
「何かお探しですか?」
「いやぁ、少し難しい注文かもしれないんだが、九十九本のバラの花束を作ってもらえないだろうか」
「九十九本ですか……。近隣の花屋にも協力してもらえれば可能かと思います」
「ありがとう、少し急ぎで頼むよ。そして、ちょっと花束の真ん中を開けておいてもらえないかい」
すると花屋の店員は不思議そうな顔をした。
「わかりました、少し難しいので何とも言えませんがやるだけやってみますね」
「よろしく頼むよ」
*
私は彼に何事もないことを願いながら本をパラパラ見返しながら石畳の道を歩く。家から最低限のものは持ち出してきた。あとは彼との待ち合わせ場所に着くだけ。ふと、裏表紙の内側に名前があることに気づく。そこには「d'Archet《ダルシェ》」と書かれていた。ダルシェ……! 彼はダルシェというのね! もちろん本名ではないだろう。それでも私は彼のコードネームを知れただけでも舞い上がった。
*
約束の十二時。港に着いた私は海を眺めている。約束の時間になっても彼は現れなかった。何かあったのかしら。それとも私は騙された? ……いいえ、それでもいいわ。私は受け入れましょう。
そう思い、ここで終わる命かもしれないから私は、自分の人生を思い返していた。それに組織が嗅ぎつけていてもおかしくはないわ。あぁ、でもダルシェ、あなたはどうか無事でいて。
そのとき――
「お手をどうぞ」
後ろから突然声がして、ハッとする。彼の声だった。振り返れば大きなバラの花束を持った彼が微笑んで立っていた。そっと手を差し出すと、彼はその手をとって歩き出す。
「花束の用意をしていたら少々遅れてしまいました。申し訳ありません」
私は涙を浮かべながら首を横に振った。
「いえ、そんなことはもういいの。幸せだわ、私」
すると彼は微笑みをたたえ、ふと一度後ろを振り向いた。
船のタラップに急ぎ足で二人が乗り込んだとき、彼に強く抱き寄せられる。
――――パンッ
そのとき一発の乾いた銃声と舞い散る深紅の花びらが、私の新たな人生の旅立ちを祝福した。
-終-